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楢崎健夫(初代館長)

AA13EA96-368F-42A8-AEEA-DE2566D20957大正7年(1918年)1月24日東京生まれ

父親は軍人で中学進学前に死去
周囲から陸幼年学校を勧められるが断る
(学者になりたいと思っていたのではと楢崎夫人言)

大学は拓殖大学へ進学(中国語を専攻)
大学の空手部に入部し『空手の源流を知りたい』との思いから、
本場の沖縄へ行き、まだ秘密裏に稽古されていた道場を数々周る

その中で剛柔流の祖となる宮城長順翁につき学ぶ

大学4年に北京大学へ留学予定だったが戦争によりできなくなる

戦時下となり特務機関『鳳機関』に所属(おおよそ1ヶ月)
大学時に無線技師免許を取得し中国語の語学がある事が関係している

特務機関を除隊後、予備士官学校に入学し卒業後、
陸軍少尉として戦地のフィリピンへ

戦局は悪化し敗戦
上官が戦死していたため士官であった楢崎師が捕虜となる

この捕虜として生活する過程で
太極拳の達人と出会い中国武術に触れる

捕虜から解放され帰国すると、運輸省の資材課に勤務し、
目黒にあった遠山寛賢師の修道館に入門するが遠山師が
その実力を喝破し師範に任じられる

その後、自宅を道場として支部を開く(後の拳法館となる)

運輸省航海訓練所の事務長として日本丸に勤務し、
ハワイ・タイ・オーストラリアなどの寄港先でも地元道場を訪れる
オーストラリアでは腕試しだったのか、手合わせをして相手を打ち負かし、
門下生となった者がいるという

楢崎館長が研究していた資料によると、
太極拳・八卦掌・長拳・易筋経などの書籍があり、
楊名時氏(楊名時太極拳)との交流もあった

その中で台湾の自然門の許意奇師との交流がある
出会った経緯は不明だが、昭和40年頃から始まったと思われる
その交流は『流水拳』の立ち上げに深く関わっている
『拳法拾遺』(昭和45年11月4日発行)は許意奇師が協力し、
『流水拳』の型の初期が掲載されている

昭和50年11月9日、急逝される